人為的でないこの遠山桜の広大なエリアはほかに類例がないような気がしてなりません。世阿弥の謡曲『櫻川』にうたわれた「筑波山あの面この面の花盛り」が600年を経て現出したことに興奮しています。
水戸桜川日本花の会代表幹事 稲葉寿郎
一連の遠山桜は世界遺産級です。ヒマラヤで生を受け何億年もかけて Go East!安住の地が筑波山周辺地域だったということです。世界の人が羨ましがります。
(公財)日本花の会特任研究員 和田博幸
筑波山塊(筑波地域)
筑波山塊(吾国愛宕地域)
鶏足山塊
多賀山地
このもかのもの花盛り~筑波桜川の遠山桜群~
「遠山桜」とは何か
「遠山桜」。桜を愛好する人でもあまり聞きなれない言葉かもしれない。むしろ中高年には時代劇「当山の金さん」の桜吹雪の彫り物を連想する人がいるかもしれない。「遠山桜」とは古代から存在する観桜の一つの形態であり、金さんの桜吹雪という創作は、古代より和歌の世界にのこされた「遠山桜」という一つの約束事をかけた江戸の洒落にほかならない。ということは近代以前まで「遠山桜」は、文化を知る人たちの共通言語だったのだ。
さて、その「遠山桜」はいつごろから認識されはじまったのだろうか。それは日本人の感情を表すもっとも古い形態である和歌の世界、とりわけ最古の『万葉集』に見て取ることができる。
春雨の しくしく降るに 高円の 山の桜は いかにかあるらむ (河辺東人)
河辺東人は奈良時代の従五位の国司もつとめた官吏で、平城京に住んでいた。高円山は都に最も近い春日山の南に位置する山で、都に居ながら遠望できる都人にとって最も親しんでいる「遠山」である。この他にも長歌に飛鳥の宮都や藤原京に近い天の香久山の桜が詠まれたり、平城京に近い春日山・春日野の桜が詠まれたりしているものがある。少なくとも飛鳥・奈良の時代から「遠山桜」を愛でる習慣は存在していた。むしろ貴族の邸宅や寺社など、生活の近くに桜を植えることは少なかった。桜を偏愛し、屋敷に植え始めるのは平安時代に入ってからのことで、その代表格が紀貫之であろう。
平安時代以降、「遠山桜」は衰退したのかといえば、全く逆で、『古今和歌集』以降の八代集とよばれた勅撰和歌集にその数を次第に増していく。
桜花 咲きにけらしな あしひきの 山のかひより 見ゆる白雲(紀貫之)
『古今和歌集』の編者で歌聖と称えられる紀貫之は、醍醐天皇に求められて、遠山に桜が咲き始めた様子を白雲に譬えて詠んでいる。これ以後「遠山桜」は桜を詠む際の一つの作法となっていくのである。遠く江戸時代に至ってもその影響は大きく、契沖に『万葉代匠記』を執筆させ国学形成の産婆役となった水戸藩主徳川光圀は「遠望山花」との詞書のもと
足引の 遠山まゆの 一すじも 黒き色なき 花の白雲
といった一首や、行ったことのない吉野の遠山桜を詠んだ歌をのこしている。かくして、生活の身近に桜がある現代とは異なった感覚で「遠山桜」は愛され続け、日本人が桜を語る語法の一つであり続けた。
一方で中世・近世を通じて日本人は山を産業の拠点として開発し続けてきた。戦後にいたるまで、山林の伐採と用材の植林が重ねられ、特に人里から見える里山に人の手が入らない山はなかった。ヤマザクラも用材として積極的に使われ、山に古木が残ることは稀だった。人為的に「千本桜」が植えられた吉野を除いて自然の姿の「遠山桜」は失われつつあった。それが近年、山に人の手が入らなくなり、「遠山桜」の景観が復元されつつあるのだ。実に数百年ぶりのことではないのか。そのもっとも顕著な例が本書で紹介する筑波桜川一帯・筑波山塊の「遠山桜」の景観なのである。
神のつくった桜の聖地・筑波山塊
さて、ここでとりあげる筑波桜川のエリアは、地理的には八溝山地南端の筑波山塊と呼ばれる地域である。富士山とならぶランドマークそして霊峰として古代より坂東の人々に愛され・崇敬されてきた。男体・女体の双峯は日本人の祖神イザナギ(筑波男大神)・イザナミ(筑波女大神)の両神に比定され、『常陸国風土記』(以下、風土記)の筑波郡の条には崇神天皇期より「つくば」の名があらわれ、古来 、坂の人々が春の桜が咲く時、秋の紅葉の時(つまり豊穣への祈りと収穫への感謝の時)にうち揃って筑波に登山し楽しんだ、ということが記されている。『日本書紀』には五世紀の履中天皇・允恭天皇と桜にまつわる記録があり、その後も万葉集に桜の和歌が納められているが、が、庶民が桜の花を楽しんだという記録としては最古のものといって差し支えないだろう。
奈良時代に成立した『万葉集』でもっとも多く詠まれた山は、大和や畿内の山々ではない。他ならぬ筑波山である。奈良時代に成立した『古事記』『日本書紀』には日本武尊の東征にまつわる挿話のなかで、日本武尊が「新治筑波を出てから何日たったか」と和歌で問うと御火焼翁(みひたきのおきな)が九夜十日と答えたという記述がある。十二代景行天皇の頃すでに筑波は大和政権に認識されていたということだろう。
神話伝承を見てみると『古事記』にイザナギ・イザナミの子であるオオヤマヅミ(大山祇神)の娘として桜の化身であるコノハナサクヤヒメ(木花開耶姫命)が、また『古今著聞集』草木編にはイザナギ・イザナミの子の木の神ククノチ(句句廼馳)の子にカヤノヒメ(鹿屋野比売神)がうまれ、これが春に桜梅桃李の花をさかせた、とある。筑波山の両祭神の懐にはその血統から出でた神が桜を咲かせるに足る土台があるのだ。神々に祝福された遠山桜の景観が筑波山塊には存在するのだ。
歌聖紀貫之と桜川
平安前期に登場し、醍醐天皇の命で初の勅選和歌集『古今和歌集』の編者となった紀貫之は、筑波山の存在を強く意識 した。『古今和歌集』仮名序の中で、醍醐天皇の君徳(御蔭)を、巨大なる筑波山の麓に広がる緑蔭よりも大きいと譬えて見せた。紀貫之は国司として東国に赴任した経歴がない。それにも関わらず初の勅撰和歌集の序に筑波山を書いたのは、やはり『万葉集』で筑波山が数多く詠まれてきたことや『古事記』『日本書紀』での筑波が詠み込まれた和歌を意識しているからに他ならない。
紀貫之が、筑波に思いを寄せる理由はもう一つある。祖父である紀本道が、隣国下野守として赴任し、都に戻っても官途に就く希望の薄い叔父たちが、下野に土着したことで、坂東の情報が貫之の耳にもつぶさに伝わっていたのである。筑波山塊は祖父がいた下野国府からもしっかり眺望することができ、叔父たちが土着した芳賀郡は、常陸国との境に位置している。『常陸国風土記』のなかの「坂東の人々が春の桜が咲く時」「うち揃って登山し楽しんだ」というのは、下野国の人々にとっても同様だったのであろう。父や叔父たちが桜咲く筑波山塊を目指した時、その経路となったのが常陸国磯部近辺の桜川だったのだ。下野から南下するに従って眼前に筑波山塊の遠山
桜の容貌が迫り、残雪や雲霞のようなヤマザクラがパノラマのように遠望される。それに見惚れているが、行く手にに小川が迫っている。一時、足元を眺めると、川面には見たこともない奇観が展開されている。
常よりも 春辺になれば 桜川 波の花こそ 間なく寄すらめ(『後撰和歌集』)
筑波山塊のヤマザクラのはなびらを隙間なくあつめてたゆとう桜川の美しさを、祖父や親類そして家人たちから幾度となく聞かされたのであろう。自らの屋敷に桜を数多く移植してしまい、後年「桜町」の名を残してしまう程の元祖桜狂いの貫之は、和歌の聖地とも思っている筑波の山々と重ねて桜川への思いを募らせていったのだろう。
鎌倉期、筑波の桜の継承
平安時代四百年の間に、文芸の頂点は漢詩漢文から和歌へと変化していった。同時に武士の誕生とその影響力の拡大とともに坂東の地との交流が進み、鎌倉時代に武家の都・鎌倉が形成され、多くの貴族が、摂家将軍・親王将軍の誕生とともに坂東に下向し、また地頭の任免権や土地の訴訟の判決をめぐって貴族たちが鎌倉との情報交換を余儀なくされると、その情報は都にもたらされる機会が増えた。『万葉集』・紀貫之により称揚された筑波山塊の情報も同様である。また武士たちが教養として和歌を詠むようになると、東西の文化的交流が活発となる。
後鳥羽上皇の勅命で『新古今和歌集』を編纂した藤原定家・家隆は、三代将軍源実朝の和歌を添削するなど鎌倉と交流が深く、坂東を意識して筑波山塊と桜の和歌をのこしている。
みなの川 峯より落る 桜花 にほひのふちの ゑやはせかるる(藤原定家)
桜花 ふくやあらしの あしほ山 そかひになひく 峯の白雲 (藤原家隆)
定家の歌は百人一首で知られる陽成院の「つくばねの 峯より落つるみなの川・・・」を本歌とし、筑波山から流れ出す男女川に峯の桜花が落ちて流れる様を取り上げている。また家隆の歌は筑波山に連なる葦穂山(足尾山)の桜を取り上げている。また同じ鎌倉期に作られた歌に
芦穂山 花咲きぬれば つくばねの そかひにみれば 雲のたなびく(詠み人しらず『夫木集』)
があるが、家隆の歌と同様に葦穂山の桜が取り上げられている。これらは『万葉集』の「筑波嶺に そがひに見ゆる 葦穂山 悪しかるとがも さね見えなくに」を本歌としている。
鎌倉時代中期になると、初の親王将軍である宗尊親王に付き従って鎌倉京都を行き来する関東祗候延臣とよばれる貴族が出現する。政治を執権北条氏に握られて実権のない将軍や廷臣たちは、和歌の道で存在感を示そうとするが、彼らが形成した鎌倉歌壇の歌合せなどでは、やはり万葉・古今以来歌われてきた筑波・桜川は主題として取り上げられていくことになる。
秋の夜の 月ぞ流るる 桜川 花は昔の あとのしらなみ(宗尊親王)
つくばねの 峰の桜や みなの川 ながれてふちと ちりつもるらん(飛鳥井雅有)
宗尊親王は筑波山塊に位置する桜の名所、雨引山楽法寺の再建に力をつくしている。親王と廷臣である飛鳥井雅有は、鎌倉より旅立って筑波山塊の山桜を南から北へ眺めながら歩き、歌聖・紀貫之にうたわれた桜川の地を実踏したのではあるまいか。また、同時期に歌道に励んだ貴族の一人藤原行家は
あしほ山 花さきぬらん 筑波ねの そかひにみれば 雲ぞたなびく
と詠んでおり、鎌倉前期に続いて足尾山が遠山桜が称揚されていることがわかる。
こうして和歌に詠まれてきた筑波山は、筑波山単体ではなく、北隣の足尾山や筑波山麓から流れる男女川、そして筑波山塊全体のイメージとしてとらえられはじまったのである。
室町期、このもかのものはなざかり
時代が下って連歌が確立した南北朝期、関白をつとめた二条良基は、連歌の起源を、前掲した記紀の日本武尊と御火焼翁の歌のやり取りとしたことから、和歌を「敷島の道」というのに対して連歌を「筑波の道」と称した。室町時代を通じて連歌は大流行し、その最盛期に出た連歌の大成者が宗祇である。
筑波嶺の 峰より花に あけそめて 桜川かと いろにながるる(宗祇)
この歌を詠んだのは応仁二(一四六八)年の秋であったが、その目的は「つくば山の見まほしかりし望を」遂げることにあった。つまり二条良基により連歌の聖地とされ、自身も憧れ続けたた筑波山を一目見たいという宗祇の強い願望から出たものだった。ルートについては海路那珂湊に上陸してから筑波山塊の東から桜川を目指したとする説と、陸路鎌倉街道を北上したとする説がある。ただ宗祇の遺した「名所千句」の常陸国の条には「一本(ひともと)の 名残の秋の 芦穂山 小野の御牧の 道の淋しさ」という歌が残っており、山塊南端に位置する小野御牧が存在していた小野の里(土浦市小野・東にヤマザクラの名所雪入、西に宝篋山に囲まれた地域)から足尾山を遠望し桜川へ致す道筋を辿ったことが想像される。歩いたのは秋なので遠望する山塊の遠山桜を想像しながら聖地桜川にたどり着いたようだ。
宗祇の筑波巡礼より三十年前、永享十(一四三八)年、能の大成者として知られる世阿弥は、謡曲(能の脚本)の一つとして『桜川』を作り上げた。桜川磯部稲村神社の社伝によれば、神官磯部祐行が神社に伝わる「桜児物語」を当時の鎌倉公方足利持氏に献上し、持氏から都の世阿弥の手にわたって謡曲に仕立てられたといわれている。日向国のもとは国司の家の子が、貧困から母を救うため自ら身売りし、それを知った母が、狂乱しながら息子をさがして諸国をさまよい、常陸桜川の地で母子は再会を果たすという物語だ。重要演目の一つとして現代においても盛んに演じられる能だが、その中に次のような一節がある。
筑波山、このもかのもの花盛り、このもかのもの花盛り、雲の林の蔭茂き、緑の空もうつろふや松の
葉色も春めきて、嵐も浮かむ花の波、桜川にも着きにけり、桜川にも着きにけり。
第二場一節の場面、鮮やかな描写である。筑波山とは筑波山単体ではなく山塊全体のことであり、主人公の狂女となって子を探す母が九州日向から東へ向かい、ついには筑波山塊南部から北上する、その途上、「このも(面)かのも(面)の花盛り」つまり山塊の山々のあちらこちらの桜の花盛りの状況のことである。まさに打ち続く遠山桜群そのものの描写といえよう。それらを北に遡り紀貫之に詠まれた名所、桜川にたどり着いた、と詞は続く。世阿弥は筑波を訪れたことがないのに、この詳細な遠山桜の描写がなぜ可能だったか、それはやはり地元桜川の磯部祐行の「桜児物語」を土台にしたからなのだ。
さて、これまで見てきたように、筑波山塊の遠山桜群は、万葉以来、歌の世界で紡がれ、和歌の教養を踏まえて作られた世阿弥の『桜川』によってさらに具体的な姿となって立ち現れた。日本の文学とともに形作られてきた歴史的な自然景観である。先述の通り、中世・近世・近代と山に人の手が入ることで遠山桜群は衰退して、長らく忘れられたが、少しづつ人の手が離れることで六百年前の「このも(面)かのも(面)の花盛り」が復活を遂げている。山塊という広域に続く遠山桜群は、その歴史的背景をまとうことで、唯一無二の存在として眼前に立ち現れてくる。その価値は日本遺産、いやそれどころか世界文化遺産・世界自然遺産の資格があるといっても過言ではない。今は小さいエリアごとにヤマザクラの魅力に気づいてその保護や価値の発信 が始まっている段階だが、願わくはより大きな筑波桜川エリア、あるいは筑波山塊の遠山桜群として連携し、保護や発信がなされることを期待する。まずはこの写真集でその価値があることを確かめてほしい。
稲葉 寿郎
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